こんにちは!!高橋大河です。
シリーズでお伝えしている「世界を変えた釣り具たち」!
前回は、ポップXを掘り下げさせていただきました!
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さて、今回は、バス釣りを長年している方なら知っているはず!「ONETEN」(ワンテン)についてご紹介!
名前の由来や、歴史、エピソードなど、キングオブジャークベイトと呼ばれるONETEN(ワンテン)のディープなストーリーを掘り起こしてみたい。
このルアーでなければ獲れない魚がいる!
KING OF JERKBAIT
「ONETEN」(ワンテン)
110.5mm、1/2oz、スローフローティング。
このスレンダーなミノーが紛れもないビッグフィッシュキラーであることは、バスアングラーなら誰もが認めるところ。
ワンテンは、今から17年前、世界最高峰のバストーナメント、B.A.S.S.バスマスタークラシックで鮮烈なデビューを飾り、その後メガバスUSAを経由して日本に上陸しました。
ワンテンは、メガバスのグローバリズムを体現すると同時に、その名の通り、伊東由樹の先見性に満ちたビジョンを証明するスペシャルなルアーです。
伊東由樹(YUKI ITO ) プロフィール
メガバス公式ワンテン詳細ページはこちら
バスフィッシングを長くやっているアングラーで、ワンテンの名を知らない者は、ほとんどいないでしょう。
“キング・オブ・ジャークベイト”、“世の中にはワンテンでなければ釣れない魚がいる”とまで称される、ジャークベイトの代名詞的存在となっています。
では、ワンテンはどのようにして生まれたのか?
それを知るためには、当時のメガバスの立ち位置と、それを取り巻くバスフィッシングシーンの背景から説明する必要があります。
ONETEN(ワンテン)の歴史
ONETEN(ワンテン)が生まれたのは西暦2000年。誕生の地は、日本ではなく、アメリカで先行デビューしました。このワンテンがデビューする10数年前となる1980年代の後半にV-FLATやZ-CRANKで世に打って出たメガバスは、すでに伊東由樹の個人ファクトリーからメーカー企業へと規模を拡大していました。
メガバスでは自社ブランドのみならず、他社のOEMも手掛ける生産者としてクライアントの要望に応え、順調に業績を伸ばす毎日。
当時、「納期やコスト、市場のニーズに一切縛られることのないモノ作りは、ただのアマチュアイズムに過ぎない」が、当時の伊東由樹としての正直な想いで、充実した日々を送っていました。
ただ、その一方で、釣り人としての伊東由樹は、以前のように自分の欲しい道具を自分のためだけに作りたいという欲求も捨てきれずにいました。
フィネスゲームが全盛だった時代にその常識を覆したのがX-80
その頃、つまり1990年代から2000年にかけて、日本のトーナメントシーンはフィネスゲームが全盛で、ソフトルアーを用いてディープの一点をピンポイントで攻めるスタイルが主流。
ハードルアーで広域のシャローを探っていく釣りは「サンデーアングラーの曖昧な釣り」という印象すらありました。
当然、ミノープラグも9cm以下の小型が主役。そんな中でリリースしたX-80は、爆発的な釣果と圧倒的なセールスを記録。
ミノーでもシャッドでもなく、適度な体高をもったシャイナーフォルムと、8cmのサイズ感が、当時の市場にはジャストフィットしていたのです。
メガバス公式X-80 TRICK DARTER詳細ページはこちら
グレートハンティング95を手に渡米
しかし伊東自身は、プライベートの釣行において、トラウト用に作ったインジェクションミノーのグレートハンティング95(GH95)や手製のITOシャイナーなど、X-80より、ひと回り大型のミノーを多用。ダイナミックかつトリッキーなジャークを駆使して琵琶湖や池原のビッグバスを数多く仕留め、その後グレートハンティング95(GH95)を手に渡米。
12の州で広大なシャローを釣り倒していくうちに、そのポテンシャルと新次元のジャーキングの普及に夢を膨らませていたのでした。
アメリカではジャークベイトの釣りがすでに定着
そのチューニングを伊東に託していたのでした。
当時アメリカでは、ジャークベイトは誰もが使うユニバーサルなルアーとして定着していて、ショップにはスミスウィック社のラトリンログをはじめとして、様々なミノーが売られていました。
メガバスのサポートを受けるバスプロであり、伊東の友人でもあるランディ・ブロウキャットやアーロン・マーティンスも例外ではなく、ラトリンログをジャークベイトとして使用。
そのチューニングを伊東に託していたのでした。
グレートハンティング95は、西海岸のローカルアングラーが絶大な釣果を得たことから口コミで人気に!
当初は依頼されるままにリップやウエイトのチューニングを施し、送り返していた伊東でしたが、やがてそれをやめて彼らにもグレートハンティング95(GH95)を送ってみたのでした。
そのグレートハンティング95(GH95)はすぐには結果を出せなかったようですが、どういうルートをたどったのかは定かではないのですが、西海岸のチャーリーというアマチュアアングラーの手に渡るのでした。
そして彼が絶大な釣果を得たことから口コミで噂が伝わり、やがて西海岸のローカルの間に、グレートハンティング95が広まっていったのでした。
グレートハンティング95は製造工程に手間が掛かりすぎるため量産できないという問題が…
グレートハンティング95(GH95)は凄まじい破壊力を秘めたミノーだったのですが、実はこれを売り込むには大きな問題がありました。
というのも、製造工程に手間が掛かりすぎるため、受注生産ならまだしも、プロダクツとして積極的に量産する対象ではなかったのでした。
また、バルサ製のITOシャイナーも、伊東が個人的に入れ込んでいた自信作でしたがが、サイズ的な問題もあって国内市場で製品化できる状況ではありませんでした。
グレートハンティング95(GH95)とバルサ製ITOシャイナーの良いトコロを融合させたルアーを自費で製作することに!それが後にワンテンとして市場に!
そこで伊東は、この2つのジャークベイトの良いところを融合したミノーを新たに考案、自費で製作することを決めたのでした。
誰から求められたわけではなく、何かに縛られることもなく、純粋に伊東自身が使いたいという想いが出発点。
「マーケットインではなくプロダクトアウト」。市場に媚びるのではなく、メガバスの想いを発信していくのだというスタンスは、現在も伊東がたびたび口にするメーカーとしてのアイデンティティなのです。
このジャークベイトの顧客は伊東自身。
ほかにはいない。そこで「い(1)とう(10)」にちなんで全長は110mmとし、名前も110を英語読みした『ワンテン』に決定。なんと、11cmという絶妙なサイズは、マッチザベイトや市場の需要から割り出したものではなかったのです」
ONETEN(ワンテン)の発売とその頃に起きたエピソードについて
さっそく、アメリカから販売を開始したのですが、アメリカ製のルアーに比べて価格が高いことや、扱っているショップが少なかったこともあってセールスは奮いませんでした。しかし伊東は満足していました。
なぜなら、ジャークベイトの頂がとてつもなく高いことは承知していたし、チューニング無用の完成度を誇るワンテンなら、いつか必ずその頂に迫る日が来ると確信していたから!
それを裏付けるエピソードとして、2000年のコンセプトアルバム「グラウンドゼロ」には次のように記されています。
メガバスがインジェクションミノーの生産に着手したのが1989年。当時トラウト用ミノーとして各地のモンスターを席巻した、GREAT HUNTINGミノーは、その後まったく新しい設計思想と、内部構造、素材から構成されたX-70 、X-55へとバージョンアップされ、バスフィッシングへも活躍の舞台を広げています。(中略)そして、日本の皆様にはもうしばらくお待ちいただくことになってしまうかもしれませんが、グレートハンティングの時代から永らくメガバスミノーたちを可愛がって頂いたアメリカのアングラーの皆様に、2000年、ONETEN(ワンテン)をリリースします。アメリカのトーナメントシーンで、ランディ・ブロウキャットやゲーリー・クライン、アーロン・マーティンスたちの、熱烈なラブコールに応えるONETEN(ワンテン)が、次世代のミノーを提案してくれるでしょう。出典:2000年のメガバス・コンセプトアルバム「グラウンドゼロ」