今江克隆のルアーニュースクラブR「今江克隆の後継者!? 運命の悪戯? TOP50七色ダム戦優勝者・河野正彦プロのバックステージを紹介」の巻 第1143回
JB40周年記念の年となる2023年TOP50開幕戦ゲーリーインターナショナルCUP七色ダム(奈良県)が閉幕した。
自分の順位は凡庸な19位フィニッシュ。
その数字だけを見れば決して喜べる順位ではないが、その数字以上に自分にとって深い感慨と喜びを感じる、記憶に残る開幕戦となった。
開幕戦における自分の戦いに関してはブログに書くので、興味のある方はそちらを見てほしい。
そして2023年の開幕戦七色ダムは、イマカツ・プロスタッフ河野正彦プロの65cm4200gを含むトータル17kg越えの驚異的スコア&ビッグフィッシュ賞獲得という衝撃的な完全優勝で幕を開けた。
今週は、今でもまだ違和感を感じる感覚なのだが、選手人生40年を迎えるにあたって不覚にも初めて同じ舞台で戦う他人の勝利を100%、心から嬉しいと思ったイマカツ・プロスタッフ河野正彦ついて、自分だけが知る彼のバックステージを書いてみたいと思う。
河野正彦との出会い
河野正彦は、ヒューマンフィッシングカレッジ時代、講師である三原(直之プロ)の生徒であり、自分の大昔のホームレイクだった生野銀山湖チャプターで好成績を収めていたことからイマカツのプロスタッフに数年前に仲間入りした23歳の若者である。
正直なところプロスタッフに加入した頃の彼の印象はほとんどなく、JB生野銀山湖2年目にTOP50参戦権を獲得した時も興味もさほど持つこともなかった。
当時覚えている印象は、12フィートのエレキ艇しか持っておらず、トレーラー牽引経験もなく、当然、ライブスコープなど使用したこともなく(2023年、現在も……)、生野銀山湖(兵庫県)、東条湖(兵庫県)以外の経験がないのにTOP50に参戦するという背の高いおとなしそうな、普通によくいるZ世代?の若者といった感じだった。
だが、その印象は翌年、TOP50開幕戦・遠賀川(福岡県)で河野が初めて正式に自分に挨拶しに来た時に強烈な印象を残すことになる。
河野は、自分にとりあえず失礼ギリギリ寸止めの挨拶をした後、そばにいた(株)イマカツ生え抜きの渡辺(健司)に「福岡のスタッフの方ですか?」と敢然とボケてみせたのである。
その後いろいろ分かるのだが、河野のバス業界に関する知識はその程度であり、バスを釣ること以外に興味がない純粋な釣りバカ、それゆえの物怖じしない大物ぶり、そして意外に鋭い目つきと異様に白い歯に、自分がかつて100年に一人の逸材と感じた馬淵利治プロの面影を見た気がした。
TOP50参戦とその後の活躍、そして……
このTOP50参戦初年度、河野は初めての遠賀川で「ハドルスイマーエラストマー4.5インチ」のワンフックアラバマリグを橋脚に引っ掛けシェイクする驚きの方法でビッグフィッシュを獲り、予選通過。
この年のTOP50最終戦・弥栄ダム(広島県)では、得意のサイトフィッシングや「フラットヘッドゴビー」等を駆使しTOP50初年度で初表彰台4位を獲得する。
そして迎えた22年春の弥栄ダム戦では「レイジーハード」でビッグフィッシュを獲るなど、随所にその独創的才能の片鱗を見せはじめた。
ルアマガL.O.Yを獲得した「(アベンタクローラー)バゼル」の動画撮影でみせたセンスのよさなど、この頃から河野のポテンシャルには気が付き始めていたが、あくまでメーカー若手プロスタッフの一人であって個人的に接する関係性はなかった。
だが、この弥栄戦直後に起きたよもやの事件で状況は一変する。
河野は「無免許運転」で2年間の運転免許取り消しとなったのだ……。
まさかの運転免許取り消し
無免許運転といえば、事故や暴走を連想させるが、河野の場合は思わぬアクシデントによる無免許運転だった。
これは、若い人が4トン車クラスを運転する折には特に注意が必要だが、普通免許で運転できる車の車両総重量は、現在に至るまで道交法が2回改正されている。
自分が運転免許を取った時代は8トン未満まで普通免許で運転できたが、それが近年は運転できるサイズが変更され、平成29年以前は5トン未満、以降は3.5トン未満に変更となっている。
これが河野が免許を取ったタイミングとわずかなズレで変更されていたことを気付かなかったバイト先の運送業社の確認ミスと、本人の無知から、バイト中の些細な物損事故で車両総重量違反が発覚し、無免許運転で免許取り消しとなったのである。
4トン車を運転させていたバイト先の免許確認ミスもあり、情状が酌量され2年の免取は1年に短縮はされたものの、普段の生活でも支障をきたす免許の取り消しは、TOP50トレイルで全国転戦するバスプロにとっては選手生命を完全に絶たれてしまう致命的失態となった。
運転免許ナシでTOP50トレイルを転戦することなど、食住付き運転手を毎回長期間雇えるほどの経済的に余裕がない限り常識的に考えれば不可能だろう。
河野は正直言って、TOP50メンバーの全員の中でも間違いなく装備的にも経済的にも最低装備ランキング1位で参戦しているといっても過言ではないだろう。
12フィート9.9馬力のアルミボートでTOP50参戦、GPS付き魚探すらなく、エレキは自分のお古のノーマルエレキを与えて、当然の車中泊。10連泊も当たり前のTOP50で、それにタダで練習や本番に付き合える暇な友人も両親親類もいるはずがない。
むしろ無免許で免取になった時点でスポンサー的にはプロスタッフ失格、除名になってもおかしくはない。
河野のトーナメントプロ人生はここで一旦、終わりを告げることは、ほぼ間違いなかった。
だが、逆にこの事件があったからこそ、自分に河野という若者に興味を持つキッカケになったこともまた事実だった。
逸材をプロに育てられなかった後悔
河野の練習、試合に付き添える人間がもしもいるとしたら、それは自分以外にはないだろうと初めてこの時考えたからだ。
諸経費を全てもったうえで、同行同宿、さらに練習では同船、23歳の若者と59歳になる親より年上の自分が常に行動を共にするのは、お互いに相当なストレスになることは容易に想像された。
何より自分がTOP50の真剣かつシークレットである試合練習で同カテゴリーの選手を常に同船させるなどということは、過去一度もないことだ。
練習で同船するということは、自分の釣り方、自分のエリア、スポット、自分の試合と向き合う姿勢、経験、戦略までを全てライバルに見せることになる。
それは自分が選手としてTOP50に参戦する限りハンディにはなれどメリットはない。
河野が自分から得るものは山ほどあるかもしれないが、逆に自分が河野から得られるものは、準備や片付けの手伝いぐらいだ。
本気の自分と練習で同船すれば、経験の少ない湖では5年分の情報量を5日で手に入れることも可能だろう。
その犠牲を払う価値が河野にあるのか? そう自問自答した時、自分には一つの悔いが今も残っていることがあった。
それは、馬淵利治を100年に1人の逸材と評しながら、その逸材をプロとして育てることができなかった後悔だ。
その強烈な成績とインパクトを残したにもかかわらず、生き方が人一倍不器用で経済的余裕もなかった馬淵は、TOP50でのプロ生活の将来性に経済的限界を感じ、突然自らスッパリとTOP50を引退した。
そしてその後、釣り業界には一切関わることなく一般社会人として働く道を選んだ。
TOP50をなんだかんだと理由づけ、スポンサーに後足で砂を掛けるように辞めて、その後中途半端に釣り業界に関わるアングラーが多い中、馬淵の辞めギワのいさぎよさ、義理堅さ、人生の判断、決断力、全てがやはり逸材だったと、今も思っている。
今では家庭を持ち、社会人として第2に人生を送っていると聞く。
その馬淵をこの業界で成長させられなかった自分の後悔が、一瞬ではあるが馬淵の面影と才を宿すように見えた河野を育てることで埋められるなら……。
まだ闘争心の塊だった40代後半のあの頃は、馬淵の優勝や活躍を100%心から喜ぶことはできなかった自分も、まもなく60歳を迎える。
何かを残し、繋いでいくことも自分を育ててくれたバストーナメントへの恩返しであるならば、免許取り消しで手足を捥がれた23歳の河野をすくいあげることが、自分の新たな使命なのかもしれない……と思えた。
そして河野に思い切って「自分の後継者」としての道を歩む勇気があるかを問うた。
恐らくその問いは、河野にとって重すぎて現実味のないものだっただろう。
余程のバカでもない限り、その重圧とプレッシャーにビビってしまい断るだろうと予想していた。
正直、自分も今の河野にそこまでの力量、カリスマ性があるとは思ってはいないし、期待をしていたわけでもない。
河野の目が馬淵に似ていたこと、冗談みたいな話だが、那須川天心の目に似ていたことに、わずかだが何かを期待した気がする。
だが河野は「考えさせてください」と答えるだろうとの自分の予想に反し「やらせてください」と即答で答えた。
良くも悪くもバカなのか鈍感なのか、事の重大さを理解していないのか、意外にもあっさりと河野は答えた。
ただ、自分が24歳の時、チャンピオンボートのUSAディーラー・アングラーズマリン社の怖そうな社長達からバスボートのフルサポートの話を受けた時、このバスボートをもらって成績を残さなかったらバス釣り辞めなきゃならないな……琵琶湖に沈められるかも……と、真剣に怖くなりながらも即答で「やらせてください」といってしまったことを思い出した。
失敗する怖さより、まさかの夢が勝ってしまった瞬間だった。
期待はしていない、だが、その言葉を信じ自分の釣りを河野に全てを見せていく決断をした。
(次週に続く……)